『処女の泉』と『奇跡の海』※ネタバレしてます
先学期の授業でイングマール・ベルイマン監督の『処女の泉』という映画を観ました。
この映画を見たときに思い出したのがラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』
両作品とも幸せだった敬虔なクリスチャンである主人公が蹂躙されて死んでしまうんだけど最後には少しの救いがあるよっていうお話です。
そこに両監督のキリスト教や教会に対する考え方みたいなものが表れています。
主人公を蹂躙するものと昇華するものの二つに分けて書いていきます。
主人公を蹂躙するもの
『処女の泉』で主人公を蹂躙するのは召使と三人の男です。
美しい主人公に嫉妬した召使は主人公に不幸が訪れるようにと呪いをかけます。この主人公は劇中で異教徒信者として描かれています。
また、主人公を強姦して殺してしまう三人の男は山羊を連れています。
山羊はキリスト教における悪魔の象徴。つまり異教徒と悪魔により主人公は蹂躙されます。
では、『奇跡の海』ではどうなのか。
主人公を蹂躙するのは彼女の村の人々と彼女自身の信仰です。
彼女は敬虔なクリスチャンの村に住む人間ではない外の人間と結婚します。それをよしとしない村の人々は彼女に冷たく当たり、両親でさえ最後には彼女を見捨てます。
さらに出稼ぎに出た愛する夫を返してほしいと祈った直後に夫が事故に遭い不随になってしまったことから自らを責めることになります。
教会と信仰心が彼女を追い詰めていきます。
主人公を昇華するもの
両作品とも主人公は最終的に悲劇的な死を遂げます。
それを救い昇華させるものも対照的に描かれています。
『処女の泉』では主人公が倒れた場所に泉が湧き出ます。
聖母マリアの現れたルルドの泉を連想させる描写は敬虔な信者である彼女を聖的なものへと昇華させるよう。
対して『奇跡の海』では教会から追放され葬儀すら行ってもらえなかった主人公を弔うのは外の者である彼女の夫です。
つまり異教徒的存在により彼女は昇華されます。
対照的な宗教観。面白いです。
駄文、長文、拙文、失礼しました。
『処女の泉』と『奇跡の海』、関心を持っていただけたら幸いです。
文責:宮本